「立花宗茂と誾千代」で大河ドラマの期待高まる!!
目次
2019年は「いだてん〜東京オリムピック噺〜」が大河ドラマで放送されてますね(^^♪
残念ながら、視聴率が芳しくないそうです。
マラソンや東京オリムピックに興味がない人は見たくないのかな?
私はマラソン好きですが、ドラマを見たのは初回だけです(笑)
某ナレーションの声が聞き取りにくく、ストレスを感じたのでテレビを消しました(;^ω^)
でも戦国や明治維新と違う大河ドラマも新鮮で良いですよね!
「立花宗茂と誾千代」で大河ドラマ誘致!
福岡県は「立花宗茂と誾千代」で大河ドラマの誘致活動をしているようです。
「立花宗茂と訚千代」NHK大河ドラマ招致委員会設立総会
とくに柳川城跡がある柳川市はかなりの力の入れよう。
もし大河ドラマが決定すれば、通常とは比べ物にならないぐらい観光客が訪れるでしょう。
大河ドラマの経済効果が凄いのです。
この記事を見ると、「軍師官兵衛」の経済効果が抜きんでてることがわかります。
主演はアイドルグループV6の岡田准一さん。迫真の演技を観ることができました!
視聴率はそれほどよくなかったのですが、(近年では悪くないレベル)とても面白かったです。
2014年1月5日から12月21日まで放送されました。
おもに兵庫県にゆかりがある大河ドラマ「軍師官兵衛」。もちろん福岡県や大分県など、ゆかりある地は他にもたくさんあります。
官兵衛が福岡にきたのは、いわゆる晩年。ほぼ隠居?
生まれ育ってから関ヶ原の前まで、ほとんど近畿エリアで活躍していた印象が強いですね。
関ヶ原の戦い以降、九州はほとんど息子の長政に任せてた印象。
(柳川城攻めのときは如水が参加したんだね)
ちなみに、福岡城を建てたのも長政です。
官兵衛は晩年も有馬温泉や京都に足を運んでいたようです。
亡くなった場所も京都伏見。
それでも、
大河ドラマの経済波及効果は兵庫県よりも福岡県の方が上だったんですね。
兵庫県238億円
福岡県279億円
福岡県にゆかりがある大河ドラマを放送すると、
経済効果が凄すぎる!のかも。
ちなみに、官兵衛のお墓は福岡市博多区の崇福寺にあります!
500円ぐらい入場料払わないといけないんじゃないの?
と思ってしまうぐらい立派なお寺です。
境内には黒田家の大きなお墓がずらり。
崇福寺は入場無料!!
管理してる方々、本当にありがとうございます!
立花宗茂から話がそれてますね。
ちなみに、2020年の大河ドラマは
「麒麟がくる」が放送予定です。
主人公は明智光秀。
その明智光秀に対して「宗茂&誾千代」は知名度がかなり低いのではないか?
と個人的に心配しておりました。
ところが嬉しいことに、
立花宗茂は
大河ドラマにしてほしい戦国武将ランキング等で毎年上位に顔を出してるようです。
NHK大河ドラマの主人公に取り上げてほしい人物は? ランキング(2018調査)
歴代大河ドラマ人気ランキングと600人が選ぶ大河ドラマ化して欲しい人物は
コアな戦国ファンは立花宗茂&誾千代のことを、詳しく知ってるようですね。
私はほとんど知らないので、(知らんのかい!)
そのへんを掘り下げていきましょう!
ちなみに次のような会も発足してます。
もし興味があれば一緒に応援してあげてください(^^)/
「立花宗茂と誾千代」大河ドラマ招致を応援する会
立花宗茂はどんな人?功績は?
陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。
関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。
つまり、関ヶ原の戦いで負けて柳川を追い出されたけど、徳川時代に柳川の大名として復帰できたってことかな。
以下、立花宗茂について簡単にまとめました。
生い立ち〜立花家相続
1567年8月18日豊後で高橋紹運の長男として生まれた。
1581年立花道雪の娘「誾千代(ぎんちよ)」と結婚して婿養子になる。
誾千代は実質的に立花家の家督を継いでいた。
誾千代に代わって道雪から家督を譲られたが、宗茂と誾千代は不仲であった。子供もできなかった。
道雪死亡後に別居。
1581年第二次太宰府観世音寺の戦いで初陣。手柄をたてる。
1581年秋月軍と潤野原の戦い。死傷者多数。
1582年4月16日秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦い。手柄を立てる。
1584年8月道雪が留守の1000程の兵力の立花山城を8000の秋月兵の攻めから守る。
立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回。
1585年に道雪が病死。
豊臣時代
1586年島津軍が筑前に攻めてきて、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にした(岩屋城の戦い)
このとき立花宗茂は立花山城で徹底抗戦。
島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。
高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する
その後も九州平定で活躍。4月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とす。
出水城を攻め落とす。
大口城に新納忠元を包囲した。
戦後、秀吉にその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与えられた。
1587年9月肥後国で大規模な国人一揆が起こる。戦いの末、数々の功績を挙げる。
農業用水を確保するのために矢部川を分流して、半人工運河の花宗川の開発に着手したとされる。
1590年秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評した。
文禄の役
1592年文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。
4月に東莱城を攻め落とした。
・・・
長すぎてまとめきらん(*_*;
小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」といい、
秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」と認められた。
そのぐらい活躍したってことですね!!
慶長の役
慶長の役では、戦線には参加せずにとりあえず城の守りについたようです。
秀吉が亡くなると日本軍撤退の命令がでます。
小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれてるところを、島津義弘や筑紫広門らとともに水軍を編成して救援に向かい、
朝鮮軍船60艘を捕獲して、救援に成功したとあります。
他にも武勇伝がたくさんあるようです!
関ヶ原の戦い
徳川家康から東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶。
西軍に参加した。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出した。
筑紫広門らと共に東軍の大津城を攻める。
しかし、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。
大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、
輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。
柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行。
関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たち。
しかし宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、
むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。
柳川でも戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻めていた。
最終的には、
立花勢は柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、黒田如水、加藤清正が、宗茂を説得に動き、宗茂は降伏開城した。
島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。
しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。
立花宗茂と島津義弘の話は義理人情に厚い話ですね!!
このあたりが人気がある理由かも(*´▽`*)
江戸時代
開城後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。
江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。
誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。
宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。
同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から宗茂と名乗っている。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で大御所・家康は宗茂が豊臣方に付かないよう懸命に説得。
そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠じきじきの家来として、その軍師参謀を兼ね警戒して守りを固めた。
大野治房(豊臣の家臣)の軍の動きを予言的中したり、秀忠軍の進退を指導した。
また豊臣秀頼が出陣しないことも予言して的中させた。
元和2年(1616年)、幕府に反乱未遂事件(坂崎事件)があった坂崎直盛に対して、柳生宗矩は宗茂の計謀により、この事件をよく処理した[35]。 元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。元和8年(1622年)、飛騨守に転任。また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。
なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参などに随伴している。 そのため、国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後はその傾向が一層強くなり、江戸に屋敷を構えて定住して本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たしている。
寛永15年(1638年)には前年勃発した島原の乱にも参陣し[36]、総大将の松平信綱を輔佐した。宗茂は城兵の様子から、黒田軍への夜襲を予告し、それが的中したため、家臣たちは宗茂の観察眼の鋭さに舌を巻いたという(『浅川聞書』)。 軍事進言や兵糧攻めの戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には一番乗りを果たして昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。同年、家督を養子・立花忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。
76歳でした。
墓所は福岡県柳川市の福巖寺にあるようなので、そのうち足を運びたいですね。
福巖寺-Wikipedia
福厳寺に行ってみたよ!
さっそく柳川市の福巖寺(ふくごんじ)に行ってみました。
お寺の入り口に山門があります。熊本地震の影響で屋根の部分が一部崩れてるようです。
山門の左側に説明書きがありました。
私のようにお寺に詳しくない人は、
この門の外にある説明書きをよく読んでおかないと、中に入ったときに何の建物なのかさっぱり分かりません(*_*;
境内には、これといった案内板や説明書きが無いようです。
門の外にある説明書きによれば、
北に本堂。
東に山門。
南に天王殿。
西に鐘鼓楼(しょうころう)と開山堂。
天王殿-Wikipedia
本堂の裏に立花宗茂のお墓があります。
勝手に入って見に行くことはできません。
タイミングにもよりますが、住職または奥さんに案内してもらうことは可能なようです。
立派な本堂や、西側のお墓のそうそうたる名に何かと感動しました。
建屋はかなり古くなってますが、ありのまま感があって大変良かったです。
興味ある方は一度足を運んでみてはいかがでしょう(^^♪
誾千代について
1569年9月23日立花道雪の一人娘として筑後国山本郡(現・福岡県久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生。
1575年7月6日、誾千代が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られている。
正室・誾千代は立花家改易後、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、
慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。
享年34。誾千代の死により、養父・道雪の血筋は途絶えた。
立花山城跡は登山過ぎる!
立花山城は立花宗茂が20歳の時、
立花道雪が留守の中攻めてきた島津軍に徹底抗戦して、結果的に島津軍は撤退。
山城ということもあって、かなりの要塞ぶりが伺えます。
現在お城は残ってませんが、石垣の跡なら福岡県新宮町の立花山の山中にあります。
ちょっとした登山をしたい方にはオススメです。
しかしまぁ、こんなところによくお城建てたな~って思いますね。
残っているのは、崩れた石垣の跡と古井戸跡ぐらいなので、観光地としては微妙なところ。
山頂からの眺めは、福岡市内と博多湾を一望できて、見晴らし最高です(*´▽`*)
まとめ
何年後になるかは分かりませんが、
立花宗茂の大河ドラマはそのうち実現化しそう(^^♪
大河ドラマが実現すれば、柳川市や新宮町はもとより、
ゆかりのある場所は県外にもたくさんあるようなので
旅行や観光が楽しみになって来そうですね!
追記:2021年大河ドラマは、渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」になりました。
2021年大河ドラマ「青天を衝け」 製作開始と主演・吉沢亮さんを発表!
2022年の大河ドラマは北条義時が主人公の「鎌倉殿の13人」が予定されてます。
立花宗茂はいつになるのか分かりませんが、
気長に待ちましょう😪