福岡で高速戦闘機「震電」が作られていた!
目次
夏休みに、福岡県朝倉郡筑前町にある「大刀洗平和記念館」へ行ってきました。
その昔、大刀洗には「大刀洗飛行場」がありました。
大正8年(1919年)10月に完成。
西日本最大の航空基地だったのです。
1945年3月、大刀洗はアメリカ軍の空襲を受けて、飛行場も壊滅的被害。
わずか26年でその役目を終えました。
終戦後、飛行場用地は農地やキリンビール工場用地に転用されました。
大刀洗陸軍飛行場-Wikipedia
キリンビール 福岡工場|キリンの工場見学|エンタメ・レシピ|キリン
今回気になったのが、幻の戦闘機といわれる「震電」。
大刀洗記念館に「震電」の現物が展示されてるわけじゃないのですが、
ここ「大刀洗」でつくられたそうなんです。(疎開後は筑紫野市原田)
何のために作ったのか?
B-29の迎撃を最大の目的としていたようですね。
いわゆる本土防衛が目的。
もはや「特攻」するぐらいしか攻める手立てがなかった頃ですよね。
B-29は大編隊でくるし、もちろん護衛も付いてます。
仮に「震電」が数機飛んだとして、果たしてどれだけ防衛できたでしょうか?
悩ましいところです。
いつどこで作ったのか?
1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。
約6000枚の図面を書き上げる。
1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、
断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。
開発の大幅な遅延に繋がる。
1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。
部品の運搬は牛車で夜中に行われた。
(Wikipediaより)
筑紫野市のHPで確認しましたが、筑紫神社(マップは筑紫宮)の北側に九州飛行機の疎開先があったようです。
西部軍司令部跡 – 筑紫野市ホームページ
九州飛行機の前進「渡辺鉄工」についても調べてみました。
福岡市の渡邊鉄工所(現・ 渡辺鉄工株式会社)は、1830年(天保元年)創業の建設業者・渡邊藤吉本店(現・株式会社渡辺藤吉本店)の分工場として1886年(明治19年)に博多に開設された。機械工場として発足したのち、1904年(明治37年)に日本陸軍用輜重車両製造で軍需に参入し、1916年(大正5年)に渡邊藤吉本店とは別の合資会社渡邊鉄工所として法人化、以後株式会社化、日本海軍向け魚雷部品などの軍需生産拡大で業績を伸長した。
1923年(大正12年)には航空機用主脚の試作で航空分野と初めて関係を持つが、本格的に航空機製造に関与し始めたのは1930年(昭和5年)に福岡市郊外の雑餉隈(ざっしょのくま)に工場を移転して以降である。1935年(昭和10年)より飛行機の製造を開始、太平洋戦争で戦局が悪化する1943年(昭和18年)に航空機製造部門を分離して九州飛行機を設立、渡邊鉄工所は九州兵器に改名した。
(Wikipediaより)
実際に飛んだのか?
1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。
1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。
続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。
(Wikipediaより)
実際に飛んだのは本当のようです。
エンジンの不具合と終戦を迎えたので、その試験飛行のみで終了。
残念な気もしますが、戦争が終わって良かったと考えるべきかな(;´・ω・)
現存する?
機体の前の部分だけですが、1号機のみ現存するようです。
1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ研究のために運ばれた。
また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。
1号機は国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されていたが、
2017年現在はスティーブン F. ユードバー=ハジー・センター(国立航空宇宙博物館別館)で操縦席から前の部分のみが展示されている。
(Wikipediaより)
こちらの記事に、唯一現存する「震電」の画像がありました。
実際に観に行くとは凄いですよね!マニアの方に感謝です(^^♪
まとめ
「大刀洗平和記念館」はこの町に飛行場があった歴史、
数多くの人が空襲で亡くなった歴史を知ることが出来ます。
また特攻隊のゆかりの地でもあります。
是非、この機会に足を運んでみてはいかがでしょうか?